試読 うみに抱かれて

Text-Revolutions Extra2 新刊「うみに抱かれて」の冒頭を公開します。よろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

深海有希の行方がわからなくなったという知らせを聞いたのは、海から吹き上げる風が飄々と吹きすさぶ冬の朝早くのことだった。起き抜けの頭でその内容を理解するのには少し時間がかかった。やがて靄が晴れるようにゆったりと思考できるようになっても、不思議と悲しみや驚きを感じることはなかった。その代わり、寒さと眠気で鈍った頭に浮かんだ思いはただひとつ。
 ──海に行かなければ。
 私は海に行って、海を見なければならない。
 スマートフォンを枕に向かって投げる。ベットのヘッドボードに肘をぶつけながらパジャマを脱ぎ捨て、適当に掴んだ厚手の服を着て、家にあるものの中で一番防寒に優れたコートを羽織る。そして顔を洗うことすら無視して思い切り玄関のドアを開けた。
 まだ朝日が昇りきる前の空だ。うっすらと夜の名残を感じる。息を吸い込むと、潮の匂いが寒さと一緒くたになって肺にまとわりついた。呼吸がしづらいような気がして無意味に口を開いて閉じて、それを何度か繰り返すとなんだか溺れているような気分になった。それでも無理矢理脚を動かして、アパートの前の坂を下っていく。もつれそうになる双脚を叱咤しながら歩いていくと、寄せては返す波の音がだんだんと大きくなっていくのを感じられた。曲がりくねった坂も半分くらいまで来ると、視線の先に朝日を乱反射する海面が顔を出す。自分でも気づかないうちに駆け出していた。そのまま坂を下りきって浜まで走る。さらさらとした砂にスニーカーが沈んで思わず足を止めた。慣れない運動と外気の冷たさで肺が悲鳴を上げているようだった。喉元から込み上げる血の味を噛み締めながら、海を眺める。
 早朝の海は静かだった。さざ波の音と私が呼吸する音だけが混ざり合う。潮風に撫でられた項が粟立った。
 太陽が完全に顔を出して、東からやって来た朝が世界を照らし始める。
 この朝のどこかに、有希はいるのだろうか。それとも。
 ひときわ強い風が吹き、思わず目を閉じた。瞼越しに感じる光。それはこの寒さのなかでも温かいのだと錯覚するほど眩しかった。